【掛け軸】 後醍醐天皇 後白河天皇 空也上人 後鳥羽天皇 俊寛 小式部内侍 「貼交幅」 真作 真筆保証 裏書き 平安 鎌倉 室町 收藏
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【後醍醐天皇】
第九十六代天皇。後宇多天皇の第二皇子。母は談天門院藤原忠子。名は尊治。鎌倉幕府を倒し、建武の中興を樹立し、天皇中心の儀式・典礼を整える等天皇専制を強化したが、足利尊氏が天皇に反し、持明院統を確立したのに対し吉野に潜幸して南朝を創始した。『建武年中行事』『建武日中行事』等を撰述した。延元4年(1339)崩御、52才。
【後白河天皇】
第七十七代天皇。鳥羽天皇の第四皇子。母は藤原公実の娘、待賢門院璋子。戦乱の世にあって、長く院政をすすめた。仏教を厚く信仰し、東大寺の大仏再建に取り組む。また今様を愛好して『梁塵秘抄』を編纂した。建久3年(1192)歿、66才。
【空也上人】
平安時代中期の僧。阿弥陀聖、市聖、市上人とも称される。観想を伴わず、ひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える称名念仏(口称念仏)を日本において記録上初めて実践したとされ、日本における浄土教・念仏信仰の先駆者と評価される。摂関家から一般大衆に至るまで幅広い層・ことに出家僧に向けてではなく世俗の者に念仏信仰を弘めたことも特徴である。空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされる。俗に天台宗空也派と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった)。踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。ただし、空也が創建した六波羅蜜寺(後述)には「空也踊躍念仏」が受け継がれており、国の重要無形文化財に指定されている。門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。後年多くの伝説が語られたが、史実を推定するに足る一次史料は少なく、『空也誄』や、慶滋保胤の『日本往生極楽記』が、没後間もない時代に記された僅かな記録である。没年の記録から逆算して、延喜3年(903年)頃の生まれとみられる。生存中から空也は皇室の出(一説には醍醐天皇の落胤)という説が噂されるが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。なお、六波羅蜜寺のWEBサイトでは、「第60代醍醐天皇の皇子」と紹介されている。『尊卑分脉』によれば仁明天皇の皇子・常康親王の子とされているが、常康親王は貞観11年(869年)に没しており、年代的にはやや無理がある。延喜22年(922年)頃に尾張国分寺にて出家し、空也と名乗る。若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行う。また、巡遊の途中、うち捨てられたままの屍を見つけては、これを集めては火葬を行った。天慶元年(938年)、京都洛中の東市などを拠点にして口称念仏を勧める活動を本格的に開始し、貴賤を問わず幅広い帰依者を得る。天暦2年(948年)、比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。貴族や民衆からの寄付を募って、天暦4年(950年)に金字大般若経書写を発願する。さらに天暦5年(951年)には、十一面観音像および梵天・帝釈天像、四天王像を造立(梵天・帝釈天と四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存。発願から足掛け14年後の応和3年(963年)、鴨川の河原にて、大々的に金字大般若経供養会を修する。この際に三善道統の起草した「為空也上人供養金字大般若経願文」が伝わる。これらを通して藤原実頼・藤原師氏ら公卿との関係も深める。 空也には、京都に疫病が流行したとき、空也自らが病魔退散を願って始めたとされる「空也踊躍念仏」が、現代まで続く踊り念仏として伝わっている。また、鹿に関する逸話も伝わっている。空也が鞍馬山に閑居後、その鳴声を愛した鹿を、定盛という猟師が射殺した。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったという。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったという。天禄3年(972年)、東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。
【後鳥羽天皇】
第八十二代天皇。高倉天皇の第四皇子、母は七条院藤原殖子。名は尊成。院政を開始し、西面の武士を新設するなど朝権回復の施策を強行した。のち承久の乱を起こしたが敗れ、院政が停止された。文武両道にわたって多芸多才であり、特に和歌に優れ、のち和歌所を設けて、藤原定家らに『新古今和歌集』の撰進を命じた。また水無瀬殿・二条殿等数多くの御所や離宮を造営・修築した。延応元年(1239)崩御、60才。
【俊寛】
平安末期の真言宗の僧。法勝寺執行。後白河上皇に近侍し、上皇関係の仏事を勤める。平氏討伐の謀議に参加、京都鹿ヶ谷の山荘を提供するが、発覚し平清盛に捕えられて薩摩国硫黄島に配流される(鹿ヶ谷事件)。共に流された藤原成経・平康頼は翌年許され帰京したが、俊寛は一人残され、治承3年(1179)頃同地で寂したとされる。その悲劇的境遇は『平家物語』に語られ、能や浄瑠璃、歌舞伎にも取り上げられている。
【小式部内侍】
平安時代中期の女流歌人。父は橘道貞、母は和泉式部。寛弘6年(1009年)頃より、母と共に彰子に出仕した。母同様、恋多き女流歌人として、藤原教通・藤原頼宗・藤原範永・藤原定頼など、多くの高貴な男性との交際で知られる。当初は藤原頼宗が言い寄ったが、藤原教通と婚姻関係となり、寛仁2年(1018年)教通の子を産んだとされる。教通との間には静円、範永との間には娘をもうけている。万寿2年(1025年)、藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に死去した。享年は28歳前後とされる。藤原範永との間に娘を産んだとする説もあるが、確たる史料はない。内侍が死去した際、母の和泉式部が詠んだ歌は、哀傷歌の傑作として有名である。「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり」『後拾遺和歌集』哀傷。小式部内侍の逸話は、下記の「大江山」の歌のエピソード、また教通との恋のエピソードを中心に、『十訓抄』や『古今著聞集』など、多くの説話集に採られている。また『無名草子』にも彼女に関する記述があり、理想的な女性として賞賛されている。母の和泉式部は小式部内侍を妊娠した時に郷里の因幡国湖山へと戻っていた。和泉式部は安産祈願の為、現在の鳥取市鹿野町鹿野にある住吉神社へ17日間に亘って参詣し、内侍は鹿野町水谷で誕生したとされる。住吉神社の西にはその際の産湯に使われたとされる井戸が残っている。この歌は『金葉和歌集』にも収録されているが、そちらは「ふみもまだ見ず」となっており、百人一首とは語順が異なる。「教導立志基」より『小式部内侍』 小林清親筆 当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があった。小式部内侍は歌合に歌を詠進することになったが、母は再婚相手で丹後守に任じられた藤原保昌とともに丹後に下っていた。そのため、四条中納言(藤原定頼)は小式部内侍に「代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」などとからかったのだが、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだ。意味としては「大江山(大枝山)を越えて、近くの生野へと向かう道のりですら行ったことがないので(または、大江山に向かって行く野の道・大江山の前の生野への道が遠くて、大江山の向こうの)、まだ母のいる遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」であり、「行く野・生野」「文・踏み」の巧みな掛詞を使用しつつ、当意即妙の受け答えが高く評価された。四条中納言もまた小倉百人一首に選ばれているほどの歌人であったが、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去ってしまい恥を掻き、この一件以後小式部内侍の歌人としての名声は高まったという。 家集はないものの、『後拾遺和歌集』などに8首入集している。しかし、8首のうち6首は、子内親王の女房だった「小式部」の作とされる。
【光明皇后】
聖武天皇の皇后。藤原不比等の娘、母は県犬養橘三千代、孝謙天皇の母。長屋王の変の後、皇后となる。仏教を篤く信じ、悲田・施薬両院を設け、東大寺大仏・国分寺・国分尼寺の造立に深いつながりをもつ。聖武上皇崩御後も政界に重きをなし、中台天平応真仁正皇太后の尊号が贈られた。天平宝字4年(760)崩御、60才。
【作品状態】
紙本 木撥軸 真筆保証(真作) 紙表装 ウブ幅 台紙寸法74.5×41.5 少し時代等あり 幅自体しっかりしています ※裏書きあり よろしくお願い致します
※※※※※※※※終了日を日曜から月曜に変更いたしました!!!!!!!!
※ご入札は画像説明をよくご覧になりご納得の上でお願いします
※自己紹介のとおりタイトルや説明に真筆保証と記載したものは正式な鑑定機関が通らなかった場合返品に応じます
※何か解からない事がございましたら入札する前にご質問下さい
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極めて稀なのですが落札後、
連絡がなかったり、お金を支払わないといった事が御座いましたので
今後は、評価が新規であったり悪い評価の多い方は
入札を取り消しさせて頂く場合が御座います
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『ブラックリスト』へ登録致します
※※※2021年8月15日より発送は全て『佐川急便』にていたします
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