古都京都のすぐ近くに むかし鎌倉時代 豪氏本間家が管理をし、江戸末期まで管理をしていまいた。 いくつもの坑道があり、中心の坑道には 木のレール木の台車がいくつもありたくさん産出していました。
車口砥は そのもので すう層の重なった厚さ3寸ものはいまは見ません、天下逸品の物
一層のものばかりです 層の厚さは1・6cmで 場所により厚くなります 。品質は最高で神がかり物で 砥石を研ぐと 真っ黒な汁が出て かぶらず 砥石は 減らず 砥石の研ぎ面が 光にかざすと 細かく光輝く すんっばらしいものです。なみど 戸前の梨地 層があり 上から赤 天井 八枚 千枚 戸前 あいさ 並砥 すいた 白 となり 用途によりわかれています。
本間 中心のもの は 表山と呼ばれていました。鳴滝は幕府直轄で刀剣の為に採掘していましたから表にはでてきませんでした。また幕府から位の高い人物として認められた人物 本阿弥家 木屋家 竹屋家 にしか売りません。
個人で は使用できません。 町衆の口利き役などに言い役所から承認されれば 御用砥残砥として木端などを、 庄屋や 外様大名武家 におろされた。
菖蒲谷は中山の西2キロメートルの位置で 東物
畑中氏の資金の下で 職人が採掘しても売り物にならないなどつずき 昭和20年以降は良い物
がでませんでした。 畑中山 40年から6年ぐらい中山の北の近くで 試し掘りし大当たり それでおわりです。これは関西の人がいうマル
カです。本当なら まる畑です。 本来でしたら マルカでは なくなります。
それは加藤鉱山のマルカです 昭和10年ごろの 中山産です 浅草のといしやを 通して流通していた関係で
東京都台東区に砥石協同組合が設立されました。 ですから まだ 商品があります 。晩年は 一般のお客様に販売した 商品を買戻し
して 商売をして いました。また金庫に問屋倒産の在庫が あります。