長文、失礼する。
近頃、どうにも食指が動かぬ。巷に溢れる物どもは、みな一様に退屈な顔をしておる。作り手の顔が見えぬ、魂の抜け落ちた品ばかり。デパートに並ぶ宝飾品とやらは、ただただ高価な素材をこれ見よがしに並べただけで、そこには何の思想も、何の気概もない。まるで、心のない料理人がただ高価な食材を並べ立てただけの、味も素っ気もない料理のようだ。そんなものに、金輪際、一瞥くれてやる価値もない。
先日も、知人が「先生、これはいかがですかな」と得意げに見せてきた流行りのブローチがあった。銀だというが、機械で型から抜いただけの、のっぺりとした代物だ。私は「君、これを美しいと思うのかね」と、ただ一言問い返した。知人は言葉に詰まっておったが、無理もない。美とは何か、その本質を理解せぬ者に、物の本当の値打ちは永遠にわかるまい。
そんな折、私の骨董の師である老爺から、「面白いものが手に入った」と連絡があった。彼の審美眼は確かだ。私は重い腰を上げ、彼の隠れ家のような店を訪ねた。
店の奥、薄暗い棚の上に、それはあった。
一目見て、息を呑んだ。
銀色の、閃光。
まるで、夜の嵐の最中に一瞬だけ光る稲妻を、そのまま切り取って固めたかのごとき形状だ。長さは四寸にも満たぬが、その内に秘めたる力は、そこらの生半可な彫刻なぞ、赤子のようにひねり潰してしまうだろう。
手に取ってみると、十九グラムという、心地よい重みが掌に沈んだ。冷たく、滑らかな銀の肌。しかし、その形状は穏やかさとは程遠い。鋭く天を突く切っ先、互いに交差し、反発し合いながらも、絶妙な均衡を保つ幾本もの流線。それは、闘牛士の振るう剣(エスパーダ)の軌跡か、あるいは、ピカソの筆が描いたゲルニカの叫びの一片か。
これは日本の仕事ではない。老爺に問うと、やはりそうであった。「キケ(quique)」という、スペインの作家の作だという。
スペイン、と聞いて腑に落ちた。あの乾いた大地と、燃えるような太陽、そしてカトリックの厳格さと、ジプシーの情熱が混じり合う国。そこでなければ、このような激しい静寂を孕んだ形は生まれまい。
このブローチを見ていると、一人の孤独な職人の姿が目に浮かぶようだ。彼は、ピレネーの麓にある、石造りの小さな工房で、来る日も来る日も銀と向き合っている。流行りなど、端から気にもかけぬ。彼が信じるのは、己の腕と、己の心に燃える美の炎だけだ。彼は、ただ銀の塊を叩き、曲げ、磨くのではない。銀という素材と対話し、その内に眠る魂を呼び覚ましているのだ。
よく見ると、このブローチには二つの表情がある。一つは、鏡のように磨き上げられ、鋭い光を放つ面。もう一つは、その内側に隠れるようにして存在する、細かく槌で打ちつけたような、ざらりとした肌合いの面だ。
この対比こそが、この作家の非凡さの証であろう。
磨き上げられた面は、彼の揺るぎない理想、哲学、そして美の完成形だ。一切の妥協を許さぬ、孤高の精神がそこにある。しかし、ざらりとした面は、そこに至るまでの苦悩、葛藤、そして数え切れぬ失敗の痕跡なのだ。人間としての、生身の作家の息遣いが、そこにはっきりと刻まれている。この二つが表裏一体となって、初めてこの作品は完成する。それはまるで、私の作る織部の器のようだ。完璧に計算された形の中に、窯の炎が生み出す偶然の景色、つまり「わび」や「さび」がなければ、それはただの工芸品に過ぎん。魂を揺さぶる「作品」にはならんのだ。
このブローチは、身に着ける者を選ぶ。
権威や金で身を飾ろうとする、心の貧しい者には到底似合うまい。そういう者が着ければ、このブローチの持つ鋭い気迫に負け、まるで借り物を着た道化のように見えるだろう。
これを持つにふさわしいのは、自らの哲学を持ち、世間の評価に惑わされず、己の道を生きる人間だ。そういう人間がこれを身に着けた時、この銀は初めてその真価を発揮する。それは単なる飾りではない。その人の生き様を映し出し、その精神と共鳴し、沈黙のうちに雄弁な物語を語り始めるのだ。
この品を、とやらに出すという。
まあ、それもよかろう。物の価値は、その物が決めるのではない。見る者が決めるのだ。これがどれほどの値をつけるか、私には興味はない。ただ、この一個の銀塊に込められた、スペインの一人の作家の、燃えるような魂の叫びを聴き分けることのできる人間が、日本のどこかに一人でもいることを、願うばかりである。
もし、あなたがこの品を前にして、心が少しでも震えたのなら、それは幸いなことだ。あなたは、美の本質を理解する、数少ない人間の一人なのかもしれん。