*** 商品詳細 ***
☆・①・『有島武郎とその時代』
・編著者:田中潜
・1961年・69頁・\:円・約:判
・本の状態:表紙・本文は普通
・発行:有島武郎記念会
☆・②・『有島記念館』
パンフレット
・著者:有島武郎記念
・年・頁・\:円・約:判B6判・三枚折り
・本の状態:表紙・本文は普通
・発行:北海道ニセコ町・有島武郎記念
☆・③・『有島記念館』
~北海道ニセコ~絵葉書8枚付き
・1990年?・6頁・\円:?・12x15cm
・本の状態:表紙・本文は普通
☆・④・『有島武郎の札幌の家』
・著者:前川公美夫
・1987年・98頁・\:1,000円・約:判
・本の状態:表紙・本文は普通・蔵書店シールあり
・発行:星座の会(有島記念館友の会)
☆・⑤・『有島武郎と札幌』
・編著者:田中潜
・1963年・61頁・\:円・約:判
・本の状態:表紙・本文は普通・蔵書店シールあり
・発行:有島武郎記念会
☆・⑥・『有島武郎と北海道』
・編集:有島記念館
・2002年・54頁・\:円・約:判
・本の状態:表紙・本文は普通
・発行:有島記念館
☆・有島 武郎(ありしま たけお)1878ー1923年・
小説家。(Wikipedia) 母は幸子。祖父・宇兵衛も同じく郷士であった。武郎4歳の時、父の横浜税関長就任を機に一家で横浜に移る。 父の教育方針により米国人家庭で生活。その後、横浜英和女学校に通う。
黒百合会を主宰していた有島武郎は同志として
カンパをしたが、実はそれまでに大杉とは数回しか会ったことがなかった。
『かんかん虫』『
お末の死』などを発表し、
白樺派の中心人物の一人として小説や評論で活躍した。
1909年・東京にて
陸軍少将・神尾光臣の次女・神尾安子と結婚。
1911年・札幌で教職を務めていた時、長男・
行光(ゆきみつ)誕生(のち、俳優の
森雅之として活躍する)。
1916年・に妻・安子(
肺結核により
平塚の杏雲堂で、27歳で没)と父を亡くすと、本格的に作家生活に入る。
『中央公論』1918年7月に、新しき村を批判する評論「武者小路兄へ」を発表した。

1916年(大正5年)、有島農場にて。右から2人目が有島。
しかし創作力に衰えが見え始め、『星座』を途中で筆を絶つ。
1922年、『宣言一つ』を
(有島は妻・安子と死別後は再婚せず独身を通した)。
ところが秋子の夫
春房に知られる所となり、脅迫を受けて苦しむことになる。
梅雨の時期に1ヶ月遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、
遺書の存在で本人
と確認されたという。複数残されていた遺書の一つには、「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」
と残されていた。
2009年(
平成21年)7月に、死の約半年前から有島が秋子と取り交わした書簡各3通が
札幌市にある
「幾年の命を人は遂げんとや思い入りたる喜びも見で /
修禅する人のごとくに世にそむき静かに恋の門にのぞまん / 蝉ひとつ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな」
というものであるとされ、
唐木順三の評では「いずれも少女趣味以上ではない」と断じられている(『自殺について』1950年
師であった
内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」
(大意)と言明した。
北海道に縁が深いことから、
北海道新聞社により「有島青少年文芸賞」という
文学賞が実施されている。
魯迅が紹介したことから
中華人民共和国での知名度が高く、教科書にも掲載されて広く読まれている。
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◎・篠路:S72470.2021.10.17