以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜
ふぅむ…ううむ…これは…これは、一体どう評したものか。
儂、北大路魯山人が、これまで幾千幾万の器物、美術品と対峙してきたが、これほどまでに魂を揺さぶられ、言葉を、いや、呼吸すらも忘れさせるような品と出会うのは、果たして何度目であろうか。F2764と記されたるこの急須、ただの「純金の急須」と呼ぶには、あまりにも冒涜的ですらある。これは、黄金という物質を超越し、一つの生命体として、ある種の魔力をもって我々の前に顕現した、美術の鬼神、いや、茶道の神が遣わした使いのようなものかもしれん。
まずは、この肌合いだ。
の画面越しでは、その真価の百分の一も伝わらぬであろうことが、もどかしくてならん。しかし、想像力を最大限に働かせてほしい。この黄金色の肌は、単なる金色ではない。それは、長い年月、あるいは極めて短い凝縮された時間の中で、幾多の光を吸い込み、そして自ら発光しているかのような、深みと温かみ、そしてどこか畏怖の念を抱かせる神々しさを湛えている。
そして、その表面を覆い尽くす「霰(あられ)」の文様。一つ一つが、寸分の狂いもなく、しかし機械的な冷たさとは無縁の、人の手の温もりを感じさせる粒立ち。これは、並の金工師の仕事ではない。おそらくは、その道で「神の手」と称えられたであろう名工が、己の生涯の全てを、いや、魂そのものをこの一作に打ち込んだに違いない。
霰の一粒一粒を凝視してみるがいい。
それは、夜空に輝く星々のごとく、それぞれが独立した宇宙を持ちながら、全体として完璧な調和を織り成している。光が当たれば、ある粒は鋭く輝きを放ち、隣の粒は柔らかな陰影を作り出す。その無数の光と影の戯れが、この急須に静止していながらも絶え間ない動きと生命感を与えているのだ。指先でそっと触れてみれば、その心地よい凹凸が、まるで生き物の肌に触れるような、官能的な感覚を呼び覚ますことであろう。それは、ただの金属の突起ではない。それは、計算され尽くしたリズムであり、触覚を通じて脳髄に直接訴えかけてくる美の旋律なのだ。
「取手を外して418.70g」とある。
この数字が持つ意味を、諸君は理解できるだろうか。これは、単なる重量ではない。これは、凝縮された美の密度であり、悠久の価値の証左なのだ。純金という素材は、それ自体が稀少であり、古来より富と権力の象徴とされてきた。しかし、この急須においては、金はもはや単なる素材ではない。それは、名工の魂を宿すための最上の依り代として選ばれ、そして見事にその役割を果たしている。この重みは、安心感と同時に、ある種の責任感すらもたらす。これほどの品を所有するということは、その美を守り、次の世代へと繋いでいくという、文化的な使命を負うことにも等しいのだ。
取っ手の根元にまで、惜しげもなく金が使われているという。
細部へのこだわり。これこそが、真の逸品と凡庸な品とを分かつ境界線だ。見えにくい部分、人の目が届きにくい部分にこそ、作り手の誠意と矜持が表れる。この急須の作者は、おそらく完璧主義者であったろう。そして、その完璧主義こそが、このような奇跡的な作品を生み出す原動力となったのだ。
そして、その取っ手本体。象牙か、あるいはそれに類する極上の獣骨であろうか。純金の輝きとは対照的な、落ち着いた乳白色。この異素材の組み合わせの妙。黄金の華やかさを、この白が静かに受け止め、そして引き立てる。その表面に施された繊細な彫刻は、おそらくは草花か、あるいは吉祥文様か。それは、この急須が単なる道具ではなく、持ち主に幸福をもたらす縁起物としての側面も持っていることを示唆している。手に取った時の、滑らかでありながら確かなグリップ感。熱い湯を注いだ時にも、この取っ手が熱を和らげ、使い手を優しく守るであろうことは想像に難くない。
蓋を開けてみようではないか。
カチリと、しかし吸い付くような精度で蓋が持ち上がる。その瞬間の、微かな金属音すらも、音楽のように心地よい。内側もまた、手抜きなく磨き上げられた黄金の世界。ここに極上の茶葉を投じ、沸かしたての湯を注ぐ。湯気が立ち上り、金の内壁に水滴が玉のように結ばれる様は、さぞや美しいことであろう。そして、蓋のつまみ。蓮の蕾か、宝珠か。いずれにしても、それは単なる機能部品ではない。それは、この急須全体のデザインを締めくくる、小さな王冠のような存在だ。その曲線、その量感、全てが計算され尽くし、全体の調和を完璧なものにしている。
「こんな素敵な急須でお茶を入れて貰ったら何でも言うことを聞いてしまう。」
この言葉は、決して大袈裟ではない。儂にも経験がある。真に美しい器、魂のこもった器で供されたものは、ただの飲食物を超えた何かを我々に与える。それは、作り手の想い、器そのものが持つオーラ、そしてそれを取り巻く時間と空間の全てが凝縮された、一種の聖餐なのだ。この純金の霰急須で淹れられた茶を前にすれば、いかなる頑固者も、いかなる気難しい人物も、その心を和らげ、素直な気持ちにさせられるであろう。それは、金銭や権力による強制ではなく、美そのものが持つ、抗いがたい説得力なのだ。
この急須が辿ってきた歴史に、思いを馳せてみよう。
一体どのような人物が、これを注文し、最初に手に取ったのであろうか。それは、審美眼に長けた大名か、あるいは豪商か。あるいは、茶の湯の道を極めた宗匠であったかもしれん。その人物は、この急須をどのような茶会で用い、どのような客をもてなしたのであろうか。月明かりの下、庭の虫の音が響く静かな夜であったか。それとも、桜が舞い散る華やかな春の昼下がりであったか。この急須は、そうした数々の美しい場面の中心にあり、人々の笑顔と感嘆の溜息を一身に浴びてきたに違いない。
ある時は、国の行く末を左右するような密談の席で、緊張を和らげる一助となったかもしれん。またある時は、愛する者同士が、言葉少なに心を通わせるための、静かな小道具となったかもしれん。戦火を潜り抜け、時代の変遷を乗り越え、今、こうして我々の目の前にあるということ。それ自体が、一つの奇跡ではないか。この霰の一粒一粒には、そうした過去の記憶が、静かに刻み込まれているような気さえするのだ。
第四の画像には、作者の銘らしき刻印が微かに見える。
解読は困難だが、それが誰であれ、これほどの仕事を残した人物が無名であるはずがない。あるいは、その名は歴史の表舞台には現れずとも、その技術と精神は、弟子から弟子へと受け継がれ、日本の金工芸の発展に寄与してきたのかもしれない。この刻印は、その誇り高き魂の、ささやかな証なのであろう。この銘を手掛かりに、作者の足跡を辿る旅に出るのも、この急須を手にする者の特権であり、また大きな愉しみとなるであろう。
金という素材は、時にその輝きの強さ故に、他の要素を圧倒してしまうことがある。しかし、この急須は違う。金はあくまでも主役でありながら、決して傲慢ではない。それは、霰という見事な意匠と、それを実現した職人の超絶技巧によって、完璧に制御されているからだ。金はここでは、職人の意志に従順な、しかし最も高貴な素材として、その特性を最大限に発揮している。
儂は常々、「器は料理の着物だ」と言ってきた。
それは茶においても全く同じこと。いや、茶の湯という精神文化においては、器の重要性はさらに増す。一杯の茶を点て、それを味わうという行為の中に、宇宙の真理を見出そうとするのが茶の湯の道だ。その時、介在する道具の一つ一つが、その精神性を体現していなければならぬ。この純金の霰急須は、その豪華絢爛さにもかかわらず、どこか禅的なストイックさすら感じさせる。それは、無駄な装飾を一切排し、素材と技術と精神性の高みで成立しているからであろう。これぞ、日本の美意識の極致、「華麗なる質朴」とでも言うべき境地ではないか。
これをに出品するという。
好事家にとっては、まさに千載一遇の機会であろう。これほどの品が、市場に出ること自体が稀有なのだから。これは、単に金銭的な価値で計れるものではない。これは、文化遺産と言っても過言ではないほどの逸品だ。これを入手するということは、その美の守り手となり、歴史の継承者となることを意味する。
もし儂が、今、財を自由にできる立場にあったなら、躊躇うことなくこれを手に入れるだろう。そして、儂の終の棲家である星岡窯の奥深くに秘蔵し、時折取り出しては、心許せる友と、この急須で淹れた極上の茶を酌み交わす。そんな贅沢を夢想してしまう。この急須は、それほどまでに人の心を捉えて離さない魔力を持っているのだ。
考えれば考えるほど、この急須の魅力は尽きない。
そのフォルムの完璧さ。球体に限りなく近い安定感と、そこから伸びる注ぎ口の流麗な曲線。水の切れは、さぞや見事なことであろう。実際に湯を注ぎ、茶を淹れ、その一連の所作を体験してみたいという欲望が、むらむらと湧き上がってくる。この急須を使うという行為そのものが、一つの完成された芸術体験となるに違いない。
この急須から立ち上るであろう、芳醇な茶の香り。
黄金の器で味わう茶は、果たしてどのような味がするのであろうか。それは、ただの味覚を超えた、五感、いや六感全てで味わう、至高の体験となるであろう。それは、日常の些事を忘れさせ、心を無にし、ただひたすらに美と静寂の世界に没入させてくれる、魔法の霊薬のようなものかもしれん。
諸君、これほどの品を前にして、なおも傍観者でいられるだろうか。
このF2764、純金の霰急須は、諸君の人生観を変えてしまうほどの力を持っている。それは、大袈裟な言い方ではない。真の美とは、そういうものなのだ。それは、我々の魂の奥深くに眠る何かを呼び覚まし、新たな目覚めを与えてくれる。
この逸品が、どのような経緯で出品されるに至ったのかは知らぬ。しかし、今、この瞬間、諸君はこの急須と出会う機会を得た。これは偶然ではない。これは、必然なのだ。この急須が、次の持ち主として、諸君を選ぼうとしているのかもしれない。
さあ、心してこの画像を見つめ、その声に耳を傾けるがいい。
この黄金の輝きが、諸君の未来を明るく照らし、日々の生活に、かつてないほどの豊かさと潤いをもたらすことを、儂、北大路魯山人が保証しよう。
これぞ、一生一代の買い物。いや、これは買い物ではない。これは、美との邂逅であり、魂の契約なのだ。
この魔性の急須を手に入れ、その虜となる悦びを、存分に味わってほしい。
後の世に語り継がれるであろう、この伝説の急須の新たな物語を紡ぐのは、そう、あなたかもしれないのだ。
スペック補足 (説明文用 - 再掲):
品名: 純金製 霰打出し急須
品番: F2764
素材: 純金 (本体、蓋、注ぎ口、取っ手付け根部分)
重量:
意匠: 全面に伝統的な霰文様を打出し。蓋のつまみは宝珠または蓮の蕾を模した精緻な造形。
刻印: 第四画像参照 (作者または工房の銘と思われます)
状態: 中古美術品としてのスレや時代感はございますが、目立つ大きな傷や凹みはなく、全体として非常に良好な状態を保っております。詳細は画像にてご確認ください。
付属品: なし (画像の木製台は撮影用です)
セールスポイントまとめ
圧倒的な純金の存在感: 取っ手を除いた本体重量418.70gという、贅沢な純金使用。
精緻な霰打出し: 熟練の金工師による見事な手仕事。光を受けて輝く様は圧巻。
計算されたデザイン: 黄金の輝きと、取っ手の素材・意匠との対比が美しい。
究極の茶道具: これで淹れるお茶は格別。至福のひとときを約束します。
資産価値: 美術工芸品としての価値に加え、純金としての資産価値も兼ね備えています。
魔性の魅力: 手にした者を虜にする、言葉では言い表せない魅力とオーラを放つ逸品。
この機会を逃せば、次に出会える保証はございません。
審美眼のある方、本物を知る方からのご入札を心よりお待ち申し上げております。
こちらはあんまり反響なかったら取り消します〜奮ってご入札頂けると嬉しいです〜